著者について
ウイットネス・リー兄弟の証し
ウイットネス・リー兄弟の年表
出版の働き
聖書全巻ライフスタディ
新約聖書回復訳

































 ウイットネス・リーは、1925年、中国北部のチーフーで救われました。19歳という若い時に、彼はピース・ワン姉妹の、パロ王の下にある奴隷に関する福音メッセージを通して主に出会いました。同時に彼は、生涯奴隷となってキリストに仕えるように、と彼によって召されました。彼自身しばしば証ししたように、救われた日の午後、彼が集会所を出て道に来ると、彼はすべてのものが違う、と感じました。彼は道端に立ち止まり、神に祈りました。「神よ、わたしはもう他の何もほしくありません。わたしはただあなたご自身だけがほしいのです」。もともと、神の敵の奴隷でしたが、彼はキリストの捕虜となり、彼の凱旋行進の列に従うようになりました。彼が自分自身を主にささげた日から、彼は決して彼の誓いからそれませんでした。

 1933年、リー兄弟は主によって、全時間で仕えるようにと召され、1934年にニー兄弟と同労するため、上海に移りました。ニー兄弟には多くの同労者がいました。しかしリー兄弟のように、ニー兄弟と緊密な関係にあった人はいませんでした。リー兄弟は、教会において、働きにおいて、またニー兄弟の出版の務めにおいて、重要な責任を任されました。混乱の時、ニー兄弟でさえ務めを果たすことができなかった時に、リー兄弟はいつも命の中で堅く大胆に立つよう諸教会を助けました。

 ニー兄弟は決してすぐには人を褒めませんでした。しかし、彼はしばしばリー兄弟を同労者たちの模範として挙げました。リー兄弟は、その生活と働きが全くその霊の規制の下にあった人でした。彼は決して軽々しい言葉、あるいはふざけた言葉を語りませんでした。彼は最も微細な罪をも、告白し、赦しを求めました。同労者たちの集会で、ニー兄弟は、「ウィットネス兄弟、この事柄に関して、どう思いますか?」と尋ねました。リー兄弟はいつも「ニー兄弟、わたしはただあなたが言われるとおりにするだけです。わたしにはどんな意見もありません」と言いました。彼は完全に自己を否んだ人でした。

 日本軍の侵攻のために、リー兄弟は1937年にチーフーへ帰り、1943年までほとんどの時間その地の教会を顧みていました。1942年の終わりにかけて、チーフーでリー兄弟の務めを通して大復興がもたらされました。1943年には、八百人の聖徒たちが献身して、彼ら自身と彼らのすべてを主と教会にささげました。これは戦略的な動きという結果になりました――主の回復の拡大のための、聖徒たちによる内モンゴルと中国東北部への移住です。そのような勝利の動きは敵の攻撃をあおりました。1943年5月、リー兄弟は日本軍によって捕らえられ、一か月の間投獄されました。投獄により、彼の健康は著しく損なわれ、解放された後、彼は肺結核に冒されました。休息して完全に回復するために、彼は1945年まで青島へ移りました。この苦しみの時に、わたしたちの兄弟は主によって命の木のビジョンをはっきりと見せられ、後にこのビジョンは彼の務めにおいて決定的に重要な要素となりました。

 戦争後、健康が回復した時、リー兄弟は働きにおける労苦を再開し、ほとんどの時間を上海と南京で過ごしました。彼の命の木についての務めは、1947年にこれらの地で一つの復興をもたらしました。後になって、彼は南部の諸省にある多くの教会を訪問し、教会が同じ復興へもたらされるようにとその地で労苦しました。上海では、千人以上の聖徒たちが彼ら自身とすべてを主と彼の教会にささげました。これらの日には、上海の集会所は人々で余りにも混雑していたために、聖徒たちのある者は、集会中、外の道路に立っていなければなりませんでした。中には、ニー兄弟とリー兄弟の交わりを聞くために、道路でごみ箱の上に立っている人たちさえいました。これらは、わたしたちが忘れることのできない栄光ある日々でした。

 全中国にまたたく間に広がったこの復興は、中国本土におけるリー兄弟の務めの第一の段階の実り豊かな完成でした。1949年までに、中国の30以上の省で400以上の教会が興されました。1949年の後、政治の状態は変化し、敵は優勢のように見えましたが、主の復活の中で生み出された多くの麦粒は神聖で奥義的な領域の中で、命において成長を続け、有機的に増えていきました。今日、わたしたちの兄弟の務めの受益者であり続ける、中国本土の数え切れない数の聖徒たちと諸教会は、このことの証しを担う者たちです。


台湾における務め
 1949年、リー兄弟はニー兄弟によって台湾へ遣わされ、5月に台北に到着しました。すぐに彼は主から負担を受け、台湾での働きを開始しました。彼はその手に教会の建造の青写真を持った賢い建築家でした。彼はどのように、一歩一歩神のエコノミーを遂行するかを知っていました。まず、第一に彼は、地方の一の立場の上に教会を堅く建造することができるように、聖徒たちに教会の地方の立場をはっきりと見せました。それから彼は聖徒たちに福音の強い負担を注入しました。わたしたちはみな、わたしたちの時間、力、そして物質的な所有物をささげて、知恵を尽くして、すべての環境の中で福音を伝えるよう鼓舞されました。その年の終わりまで(六か月以内)に、六回の機会に、全部で505人の兄弟姉妹がバプテスマされました。このように、もともと30人余りだった聖徒の数が、合わせて900人以上と、三十倍の増加を見ました。その年以降、わたしたちは福音を伝えることを決してやめず、主は続けて教会に加えてくださいました。1955年の終わりまでに、台湾の聖徒たちの数は全部で四万人に達しました。

 聖徒たちの数が増加するにつれ、リー兄弟は、命においてわたしたちを養い、真理においてわたしたちを照らし、そして奉仕においてわたしたちを訓練するために、さまざまな種類の特別集会や訓練を持ち始めました。それによってわたしたちがすべての面で成就されるためです。彼は聖書真理の決定的に重要な六十題目における一連の学びから始めました。それから彼はローマ人への手紙の学びへと移りました。それから、旧約と新約のライフスタディが続きました。さまざまな特別集会の中で彼は、キリストと十字架、教会のビジョン、地方教会の実行、キリストを食べ飲みして享受すること、すべてを含むキリスト、そしてすべてを含む霊などについてメッセージを与えました。

 1952年の夏、およそ80人の兄弟姉妹が彼らの仕事を辞め、全時間で主に仕えるために自分自身をささげました。このことを念頭において、リー兄弟は彼の成就する働きを強化しました。

 1953年の9月に始まり、四か月にわたって主に奉仕することでの訓練がありました。わたしたち訓練生のすべては、毎週火曜日から金曜日まで週四日、さまざまな地方からやって来て一緒に集まり、そして週末には奉仕のためにそれぞれの地方へ戻りました。訓練の内容は以下のことを含んでいます。真理については、エペソ人への手紙の徹底的な学び、リー兄弟はこの本の六つの章から六十のメッセージを与えました。命については、外なる人が砕かれるために、リー兄弟はわたしたちを霊の命の四段階の認識と追求へ導きました。奉仕については、いろいろな集会を導く、主のために預言する、福音を伝える、人を訪問し養う、そしてさまざまな教会の事務を取り扱うことなどの実行がありました。適正な人となり、正当な人の生活を送ることに関しては、わたしたちは特に話すことと性格において訓練されました。台湾から、そして海外から183人が参加したこの訓練によって、それ以降、極東における教会の建造と拡大において強力な影響を及ぼしました。

 主に対する奉仕の中で、リー兄弟は彼の全存在をささげていました。彼は常に昼夜たゆまず働きをし、目的に達するまで決してやめませんでした。彼は台北や台湾中の教会を行動へと駆り立てる強力なエンジンのようでした。いったん台湾の諸教会が積極的な動きの方向へともたらされると、彼はフィリピン、香港に移り、主の回復を東南アジア全体にもたらし、それははるか日本にまで届きました。リー兄弟の勤勉な働きは多くの実を結びました。


合衆国における務め
 1960年代初頭、主はリー兄弟に、アメリカヘ移って回復をこの国にもたらすようにという負担を与えられました。彼は、アメリカは全地の指導的な国であり、回復がさらに広がるためには務めが英語圏の世界にもたらされなければならない、と感じました。もう50歳代の後半で、その人生のすべてを中国語圏で生きてきたにもかかわらず、彼は言葉の壁によって引きとどめられることなく、1962年に英語圏のアメリカで務めを開始しました。

 彼はアメリカでの働きを祈りによって始めました。リー兄弟と他の三人の兄弟たちは、主がこの国のクリスチャンのうちで追い求めている者たちを奮い立たせ、務めとの接触の中へともたらされるようにと、何週間も毎朝ひざまずいて祈りました。この祈りから、リー兄弟は1962年の12月に特別集会を持つ負担を与えられました。「すべてを含むキリスト」についての特別集会は、ウオッチマン・ニー兄弟の義理の兄弟であるサムエル・チャン兄弟の家で開かれました。その後の数か月、リー兄弟はロサンゼルスにとどまり、毎日朝ごとの復興を通して地元の聖徒たちを顧みました。彼はやむことなく教会の集会で供給し続けました。当時、ロサンゼルスに在る教会の聖徒たちの大部分はキリスト教から来ていたので、リー兄弟は、キリストの豊かな経験を妨げる彼らの背景から解放しようと労苦し、彼らを助けました。異言を語ることに夢中になっていたペンテコステの背景を持つ聖徒から、キリストに欠けるクリスチャン生活を送っていた根本主義的な背景を持つ聖徒たちまで、リー兄弟は、地上での神の証しである教会を建て上げるために、命を与える霊に接触し、その霊なる主の造り変えの働きを経験するように彼らを助けました。

 リー兄弟はまたアメリカ全土にいる追い求めている者たちを、主に尋ね求めていました。彼は、アメリカでそれほどまでに普及しているキリスト教が、キリストの計り知れない豊かさを完全に欠いていることを知っていました。何も食べる物を見つけることのできない追い求めている者たちのために、彼の心は痛みました。1963年、リー兄弟は、訓練や特別集会で語られたメッセージが載せられた「ストリーム」誌を発行し始めました。この小冊子を通して、多くの追い求めているクリスチャンは務めとの接触へともたらされました。

 彼は、追い求めている人たちから招待されれば、どこへでも行って語りました。彼はぜいたくな旅はしませんでした。多くの時、ウオッチマン・ニー兄弟の義理の兄弟であるサムエル・チャン兄弟の運転する古い車に乗っていきました。その古い車で、彼らはロサンゼルスからテキサスまで行き、そして主の回復のために多くの追い求めていた人たちが得られました。これらの長い旅行中に、リー兄弟は詩歌を書きました。務めをするように招待された幾つかの集会で、彼は反対に遭いました。彼に反対し、市から市へと彼をつけ回って押し問答をする者がいました。なかには彼の、キリストについての務めだけを求めて、教会の建造の務めはぶしつけに拒否した信者たちもいました。そのすべてを通して、リー兄弟は大きな知恵をもって状況に対処し、常に主のしもべの威厳を保ち、常に神が彼に語るようにと委託されたすべてにしたがって供給しました。彼は決して人を喜ばせようとして彼の語りかけを変えたり薄めたりしませんでした。

 1965年に、ロサンゼルスに在る教会はエルデン通りに集会所を得ました。エルデンホールでのリー兄弟の務めは、そこですべての聖徒たちによって実行された教会生活と共に最も普及し、また魅力的なものでした。多くの追い求めていた信者たちがアメリカ中からやって来ました。実に、アフリカやニュージーランド、そしてヨーロッパから来た人たちさえいました。彼らは神の永遠の目的のビジョンを見て捕らえられ、多くの人が教会生活のために、代価を払ってロサンゼルスに移って来ました。そこには、すべてを捨てて主に従っていくという雰囲気がありました。そのように絶対的であることが、主にとって彼の祝福を注ぎ出すべースとなりました。集会はキリストで豊かであり、また霊は解放されました。教会生活は一の中にあり、命にあふれていました。1969年に、若い人たちの波がやって来ました。彼らの多くはヒッピー運動の中にいた人たちでした。リー兄弟は現れや背景にかかわらず、これらの若い人たちを愛し、牧養しました。それはロサンゼルスにおいて、主の証しが最も顕著であった時期でした。本当の意味で、それは一つの復興にほかならず、その復興はそれに先立つ長い間のリー兄弟のアメリカにおける労苦によるものでした。

 そのような復興から、1970年、リー兄弟は、主の証しの拡大のために何人かの聖徒たちがロサンゼルスから出て移住するのは主の導きである、と感じました。彼の導きの下で、アメリカ中の多くの都市で地方教会が設立されました。リー兄弟は興されたこれらの教会を顧みるために、アメリカ中を毎年旅行して特別集会を開きました。

 この時期にリー兄弟が行なったもう一つのことは、1968年、彼はアメリカ中の聖徒たち138人を、四週間にわたる国際的な特別集会と訓練のために台北に連れて行ったことです。それまで、そのような西半球の聖徒たちと東半球の聖徒たちの混ざり合いはありませんでした。それ以後、主の回復において花開いた混ざり合いの実行はこのようにして始まり、全地のすべての聖徒たちに大きな祝福をもたらしました。使徒パウロのように、リー兄弟はキリストのからだの中で混ざり合わせる要因でした。

 主がこの時期のリー兄弟の務めの中でなされたことは、回復が全地に拡大する土台を据えました。ロサンゼルスでの小さな出発から、エルデンホールでの教会生活へ、アメリカ全土への移住へ、そしてその務めの五大陸への拡大へ――わたしたちは永遠の中でのみ、主の回復の中にある地上での主の権益に対するこれらの深遠な影響を測ることができるでしょう。(「ウイットネス・リー追慕集会での語りかけ」から抜粋 日本福音書房)


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