ニー兄弟との個人的接触を通して、わたしが彼から受けた助け

 わたしは救われた日に、完全に主に仕えるように主に召されたことを分け与えました。わたしは1933年に仕事をやめて、全時間、彼に仕えるようになりました。ニー兄弟は短い手記を書いて、わたしの決心を強く確認しました。わたしは仕事をやめた後、上海へ行き、ニー兄弟のもとに彼の客として、約4ヶ月滞在しました。その期問中、わたしは彼と多くの時間を費やして、個人的な交わりを持ちました。彼はわたしに語り、おもに四つの事柄でわたしを助けました。

  命としてのキリストを知るのを助ける

 まず、彼は、わたしが主の命を知ることを助けました。わたしは、彼のもとに滞在しに行く前、主を愛しており、聖書について多くを学んでいました。しかしわたしの知識は、たいてい文字に従っていました。わたしは、命としてのキリストについては、はっきりしていませんでした。わたしは彼と接触した時、目が開かれて、命を見ました。わたしたちが一緒になる時、わたしたちの会話には、何の形式も規則もありませんでした。彼とわたしとの会話は、とても自由でした。そして彼は、多くのさまざまな題目を取り扱いました。わたしは自分自身を、学んでいる者と見なしました。ですからわたしはいつも、彼にすべての時間を与えて、語ってもらおうとしました。
 ある日、わたしたちは一緒にいました。そしてニー兄弟は、ロッキングチェアに座っていました。彼は前後に体を揺すりながら、突然わたしに問いました、「ウイットネス、忍耐とは何でしょう?」。彼の質問は、わたしを当惑させました。それは、あまりに簡単なように思われたからです。わたしは、彼の質問が見たところよりもさらに意義深いことを知っていました。ですから、どう答えてよいか、わかりませんでした。彼はわたしに、この質問を繰り返しました。そこでわたしは、忍耐とは一種の辛抱強さで、それによって、人は他の人たちからの苦難、迫害、虐待に耐えるのです、と言いました。彼は、これは忍耐ではない、と言いました。そこでわたしは彼に、忍耐とは何であるか、告げてくださるよう求めました。彼は答えました、「忍耐はキリストです」。それはわたしにとって、外国語のように聞こえました。わたしはだれかが、忍耐とはキリストである、と言うのを、聞いたことがありませんでした。
 わたしはニー兄弟に、それはどういう意味なのか、説明を求めました。しかし彼は、ただ繰り返し「忍耐はキリストです」と言うだけでした。わたしはとても戸惑い、悩まされました。彼の意味していることが、わからなかったからです。彼はただ、何度も何度も、「忍耐はキリストです」を繰り返すだけでした。結局、わたしは泊まっていた客間へ、夕食のために戻らなければなりませんでした。わたしはそこへ戻った時、よく食べられませんでした。食べる気がしなかったからです。それからわたしは、自分の部屋へ行きました。わたしはひざまずいて、忍耐はキリストである、とニー兄弟が言われるのはどういう意昧なのか、告げてくださるよう、主に求めました。そうしている間に、ついに、主はわたしの目を開いて、キリストがわたしの忍耐であることを、見せてくださいました。真の忍耐は、わたしの行動ではありません。真の忍耐とは、わたしたちからご自身を生かし出されるキリストです。これは、わたしにとって大きな助けでした。

  中国における主の回復の初期の歴史を知るのを助ける

 ニー兄弟はまた、中国における主の回復の歴史の最初の12年間について、わたしに分け与えることによって、わたしを助けました。その期間中、わたしは全く回復の中にいませんでしたから、彼はこの歴史について、とても詳細に語りました。その当時、なぜ彼がこれをしているのか、わかりませんでした。後ほどわたしは、彼がわたしのために良い土台を据えて、主の働きの中でわたしが主に仕えるために、わたしを建て上げていたことを知りました。

  教会歴史を知るのを助ける

 彼はまた、第一世紀から今世紀までの、教会歴史をわたしに述べることによって、わたしを助けました。教会歴史についてのわたしの知識は、ほとんどニー兄弟がわたしに分け与えたことから来ました。彼は教会歴史を、主の回復の目標へと向かうその方向と共に、提示しました。

  命の方法で聖書を読むように助ける

 ニー兄弟はまた、聖書を生きた方法で知るよう、わたしを助けました。ブラザレンは、文字に従って聖書を知るようわたしを教えました。ところがニー兄弟は、命の方法で聖書を知るようわたしを助けました。わたしが彼と持ったすべての個人的な時を通して、彼は以上四つの面で、わたしを助けました。わたしはニー兄弟に、彼がわたしに与えたすべての助けに対して、とても多くを負っています。

  テストを通して二-兄弟との同労へともたらされる

 これに加えて、ニー兄弟は、その働きにあずかる完全な道をわたしに与えることによって、機能へとわたしをもたらしました。わたしは上海に在る教会で、多くの責任を担いました。そしてそれは、学ぶ最善の機会をわたしに与えました。彼がわたしをそのような立場に置く前に、彼はわたしをテストしました。そして彼のテストの方法は、隠されていました。
 ある日、彼は一束の手紙をわたしに持ってきました。それは、さまざまな人によって書かれた彼に対する質問の手紙でした。これらの質問は、教会、教会の立場、命、聖書の解釈のような問題についてでした。彼はわたしに、その質問のすべてに答え、これらすべての手紙に、自分に代わって返事するようにと求めました。わたしはニー兄弟に、ある質問には、どう答えてよいかわからない、と言いました。彼はわたしに、できる限りのことをするように、と言いました。わたしは結局、これは彼のテストであったことがわかりました。わたしにそれをさせることによって、どれほどの真理がわたしの中にあるかを、彼は知りました。
 わたしが上海に到着してほどなく、兄弟たちは、第二集会所でのある集会で、聖徒たちに語るようわたしに求めました。その当時、上海に在る教会には、二つの集会所がありました。人がどこにいるか、彼の語りかけほど暴露するものはありません。わたしは七日間、語りました。ニー兄弟はそこにいませんでした。ところが彼は、わたしが語ったすべてのことについて、報告を受けていました。それもやはり、わたしへのテストでした。
 その後、わたしは第一集会所で語るよう求められました。それは、最大の主要な集会所です。教会は、大福音集会をする準備をしていました。しかしだれが語るのか、だれも知りませんでした。もちろん、多くの人は、ニー兄弟が語り手であろうと思っていました。わたしはメッセージを聞いて、どのように福音を宣べ伝えるかについて、さらに学ぶことができると思い、喜び楽しんでいました。集会のおよそ一時聞前に、一枚の小さな紙片が、ニー兄弟からわたしに渡されました。それは、その夜、福音のメッセージをするよう、わたしに命じていました。わたしには語るほか、何の選択もありませんでした。
 その夜わたしは、ヨハネによる福音書第16章8節から11節について、メッセージを与えました。8節は、その霊がこられると、「罪について、義について、裁きについて世の人に自らを責めさせるであろう」と言います。わたしは人々に、罪、義、裁きは、三つの人格、アダム、キリスト、サタンと関係がある、と言いました。罪はアダムを通して入ってきました(ローマ5:12)。義は復活のキリストです(ヨハネ16:10、Tコリント1:30)。裁きはサタンに対してです(ヨハネ16:11)。わたしたちはみな、アダムの中で罪から生まれました。罪から解放される唯一の道は、キリストヘと信じ入ることです。わたしたちが彼へと信じ入る時、彼はわたしたちに義となられ、わたしたちは彼にあって義とされます(ローマ3:24、4:25)。もし、わたしたちがアダムにある罪を悔い改めず、キリスト、神の御子に信じ入らないなら、わたしたちは罪の中にとどまって、永遠にサタンの裁きにあずかるでしょう(マタイ25:41)。これらが福音の主要点であって、それをもって、その霊はこの世を罪に定めます。
 このメッセージをした時、わたしは集会の中にニー兄弟を見ませんでした。かなり後になって、わたしたちは一緒に散歩をしていました。すると彼はわたしに、ヨハネによる福音書第16章について、罪、義、裁きが、アダム、キリスト、サタンと関係がある、というメッセージを与えることのできる人は、あまりいない、と言いました。彼はわたしを、真理の追求を続けるようにと励ましました。わたしは、彼がわたしのメッセージの内容を知っていることがわかり、びっくりしました。彼は、わたしが語っている間、わたしの背後のドアの影で、わたしの後ろに立っていて、わたしの言うことを聞いていた、と言いました。その夜の福音集会でのわたしの宣べ伝えは、わたしにとってもう一つのテストでした。

  主の働きの一つの流れの中で二-兄弟と共にあずかる

 その後、ニー兄弟は、若い信者たちのための雑誌、「クリスチャン」をわたしが編集し、命の霊的原則に関するさらに深い雑誌、「現在の証し」を、彼が編集するように取り決めました。その当時、彼はまた、教会ニュースを載せた新聞を発行することを決めました。それは、「諸教会のニュース」と呼ばれました。彼はわたしに、その新聞を取り扱うよう命じました。彼はまた、上海に在る教会の定期の集会で務めをする全責任を担う立場に、わたしを置きました。これは、彼の健康がよくなかったためです。彼は多くの時間、休息しなければならなかったのです。彼はほとんど、特別集会で語りました。
 1934年、わたしが4ヶ月近く上海にいた後、ニー兄弟はわたしに言いました、「ウイットネス、わたしたち同労者は、あなたが自分の家族を、上海に移さなければならないと感じています。それはわたしたちが、共に働くことができるためです。この事を主に持ち出して、主がどのようにあなたを導かれるかを見てください」。わたしは彼の言葉を取って、この事を主に持ち出しました。その時わたしは、使徒行伝にはただ一つの流れ、一つの潮流しかないことを見ました。それは、恵みの御座から始まって、エルサレムヘ行きました。エルサレムから、この流れはサマリヤヘ、さらにアンテオケヘ進みました。アンテオケから、それは西に向いて、小アジアとヨーロッパヘ行きました。使徒行伝は、地上には主の動きのただ一つの潮流しかないことを見せています。この潮流の外にあるどんな働きの記録もありません。バルナバがパウロから離れた時(使徒15:39-41)、彼の働きの記録は、使徒行伝にはもうありませんでした。この事件の後、彼はもはや、神の新約エコノミーにおける主の動きという、使徒行伝の神聖な記録には現れません。
 主はわたしに、中国における主の働きの潮流、流れは一つであるべきことを、印象付けてくださいました。もし主が北部で何かをなさったなら、わたしは南の上海で、その流れに飛び込まなければならないでしょう。そうすればやがて、その流れは上海から北へ進むでしょう。この啓示に基づいて、わたしは上海へ行って、ニー兄弟と同労する決心をしました。
 彼がわたしたちと、キリストの勝利の命について特別集会を持った後、彼の指導権の下に、わたしたち同労者は、主要な都市に出ていって、主の回復を広げなければならない、という決定が成されました。わたしは北部へ行って、天津と北京で働くよう割り当てられました。わたしは1936年に、そこへ働きに行きました。一方ニー兄弟は、上海にとどまりました。
 わたしは北部中国で働いていた問に、ニー兄弟から電報を受け取りました。それは、わたしがすべての同労者たちとの緊急の集会に来るように、というものでした。1937年1月のこの集会で、彼は、今は「正常なキリスト者の教会生活」に含まれているあのメッセージを解き放ちました。この集会中のある日、彼は病気になりました。そこで彼はわたしに、使徒行伝第13章に基づく彼のメッセージをするよう命じました。彼はすべての要点をわたしに与え、わたしはそれを書き止めました。わたしは最善を尽くして、このメッセージを分け与えました。しかしわたしの行なったものは、不十分でした。
 その後、働きによって決定が成され、わたしは北部中国の各省を旅して、もしできるなら、すべての宗派で教えることになりました。わたしたちは、主がわたしたちにこんなにも多くの光を与えてくださったのだから、わたしたちはこの光を諸宗派にも渡すべきである、と感じました。わたしは、日本軍が中国に侵入するまで、多くの旅をしました。その時、同労者の多くは中国奥地へ行き、わたしは彼らに加わりました。ニー兄弟が二回目に、「正常なキリスト者の教会生活」についてメッセージを解き放ったのは、その地においてでした。最初の特別集会は、そんなに十分ではありませんでした。この集会で、彼は自分の全負担を解き放つのに成功しました。
 当時わたしの家族は、まだ北部中国にいました。ですからわたしは、戻らなければなりませんでした。日本軍の侵入のゆえに、わたしは自分の故郷を離れることができませんでした。こうして、ニー兄弟とわたしは、しばらく引き離されました。わたしは北部中国にとどまり、同労者の大部分は奥地に残っていました。わたしは自分の旅と多くの宗派での語りかけの経験を通して、ほとんど結果がなかったことを知りました。それはわたしに、もう旅をしないという決心をさせました。その代わり、わたしはチーフーにとどまって、そこで教会を建造しようとしました。
 1938年、ニー兄弟は英国へ行って、そこで一年半、滞在しました。彼はまたスカンジナビア諸国の幾つかを訪問するよう招かれました。彼は1939年に、上海へ戻りました。その夏、彼はキリストのからだについての特別集会を持ちました。わたしは、この集会に参加するように求める電報を、彼から受けました。わたしは1939年8月、四人の若い同労者を、この集会に連れていきました。この特別集会を通して、わたしたちはキリストのからだのビジョンを受けました。
 1940年、彼は一連の訓練を持ち始めました。その期間中、彼はまた2ヶ月ごとに、上海で特別集会を持ちました。さらに、彼は毎水曜日の夜、キリストのからだと神の永遠の目的について語りました。その時わたしは、教会生活の実行性についての青写真を見ました。わたしはこの青写真を、チーフーに持ち帰りました。そして約二年間、わたしはニー兄弟が見たことを実行しました。これが、大リバイバルをもたらしたのです。
 同時に、1942年に上海で大騒動があって、ニー兄弟は彼の務めを中止せざるを得なくなりました。この反逆的騒動と日本軍の迫害は、上海に在る教会を閉鎖させました。上海に在る教会がこの騒動を通過していた間に、チーフーでは教会生活の実行に伴って、リバイバルが起こりました。
 その後、わたしは日本軍によって1ヶ月間、獄に入れられました。わたしは獄から釈放された後、両肺の結核を患いました。主はわたしにこの病気を、二年半で切り抜けさせられました。そして戦後、わたしは1946年に、上海へ来るよう招かれました。ニー兄弟とわたしが再び会ったのはそこでした。わたしたちは六年以上もの間、互いに離れていたのでした。わたしたちはこの期間中、何の文通もしませんでしたから、北部中国でわたしたちが実行したことが正しかったかどうか、心配でした。わたしはこれらの年にわたしたちが実行してきたあらゆることを、ニー兄弟に報告しました。すると彼は、同じ実行を他の諸教会にももたらすよう、わたしを励ましました。
 わたしは上海で、再び務めを始めました。そして1947年に、そこでリバイバルがありました。このリバイバルを通して、前に指摘したように、ニー兄弟の務めが回復されました。彼の務めが回復された時、わたしたちの問でさらに大きい、さらに幅広いリバイバルがありました。やがて、約80人から100人の聖徒たちが、1948年、彼と共に6ヶ月の訓練に参加しました。その訓練期間が終わると、訓練生たちは多くの都市へ行って、全中国にリバイバルを広げました。
 1948年11月に、ニー兄弟はわたしたち、上海における彼の周辺の同労者たちと緊急の特別集会を持って、働きに関して交わりました。わたしたちは、主の働きのために来たるべき日にどこへ滞在するべきかについて、主の導きを必要としました。その集会の初めに、彼は、彼と他の同労者たちはわたし、リー兄弟に、国外へ出ていくことを求めなければならない、そしてみなこの事を主に持ち出して、主が彼らめいめいをどのように導かれるか、見る必要がある、と言いました。
 1949年2月ごろ、ニー兄弟は同労者たちと二回目の特別集会を開いて、わたし、リー兄弟が、国外に出ていかなければならないこと、そして彼と彼の同労者たちはとどまるべきであることを、決定しました。2ヶ月後に、彼は訓練センターから、わたしに電報を打ち、上海における地元の指導者たちに、すべての責任を渡し、わたしが彼のところへ来るよう告げました。わたしは彼のところへ行って、数日間、滞在しました。それからわたしは、台湾へ遣わされました。それは1949年のことで、わたしが中国本土を離れた最後の時でした。
 その後1950年に、ニー兄弟は中国本土から香港に出てきて、わたしがそこへ彼に会いに来るよう求めました。わたしは行って1ヶ月半の間、彼と共に滞在しました。わたしは彼に、主がいかに台湾での働きを祝福されたか、一年ばかりの間に、いかにわたしたちの数がほとんど三十倍にも増し加わったかを告げました。ニー兄弟は、わたしが台湾に戻ってとどまるべきことを、確認しました。わたしが彼と共に香港にいた時、彼はわたしに、中国のための彼の負担はとても重いこと、中国本土にある多くの諸教会が、なお助けを必要としていることを告げました。
 ニー兄弟が香港にいた間、そこの教会は復興されました。これは、香港における教会生活に、新しい始まりをもたらしました。彼はわたしに、教会を建造するために、香港での教会奉仕の基礎を据えるよう命じました。彼はまた、出版の働きのための按配をしました。出版は常に、彼の監督の下にありました。彼とわたしが香港にいた時、彼は、台北に一つの書房、香港に一つの書房があって、彼の本をすべて出版するべきことを、決定しました。彼自身は、上海の書房を監督しました。彼はわたしに、台北での書房を顧みるように命じ、魏光禧兄弟に、香港の書房を顧みるよう按配しました。彼は、すべての書物は再版することができ、三つの書房は共通の版権を持つ、と言いました。こうして、わたしたちは中国本土以外のすべての場所での必要のために、彼のすべての書物を再版し始めました。
 香港でのニー兄弟とのわたしの時は、わたしが彼と持った最後の接触でした。その時から、わたしは彼についてのニュースを、彼の妻を通して間接的に受けるだけでした。彼の妻、チャリティは、1971年10月、上海で主のもとへ行きました。ニー兄弟は1972年6月1日、まだ獄中にいる時に、主のもとへ行きました。
 この簡単な歴史は、主がどのようにわたしたちの問で動かれたかを見せます。わたしたちは主の動きのために、またこの現在の時における地上での主の回復のために、祈り続ける必要があります。  (「召会と地方召会の歴史」から抜粋 日本福音書房)


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